(聞き手)
東日本大震災以前に、災害に遭われた経験はございますか。
(鎌田様)
私は
水害を3回ほど経験しています。一番大変だったのは自宅が浸水して、胸の辺りまで水がきた時でした。戸を閉めていれば大丈夫だと思っていたのですが、全く無駄でした。その経験から
水害対策として、以前より1メートル高く自宅を建て直しました。
その後、2度ほど
水害があったのですが、1メートル高く嵩上げしていたので、自宅への被害はありませんでした。
しかし、
幼稚園はそのような対策をしていなかったので、全ての
水害に遭い、ボイラーなども使い物にならなくなってしまいました。
その後、市の対策で、雨水排水ポンプが強化され、大雨が降っても浸水しなくなっていましたので、安心しきっていました。
もちろん、津波のことなど一切頭にありませんでしたし、地震で少々物が倒れたとしても、怪我をするほどのことではないだろうと思っていました。
私が子供の時、塩釜に津波が来たと言う話は聞いていましたが、正直他人事のように思っていましたし、多賀城に津波が来るとは全然考えていませんでしたので、何も備えていませんでした。
(聞き手)
震災前に、
幼稚園で
避難訓練などはしていましたか。
(鎌田様)
地震と火災の
避難訓練は年に2度行っていました。保護者の方にも、いざという時のために試験メールを送るなど、徹底していたつもりでしたが、東日本大震災の発災時は連絡が取れないことの大変さをものすごく感じました。
やはり実際に起きた時に利用できないと意味がないので、その後は、災害ダイヤルや伝言ダイヤルを使い、必ず繋がるようにしています。
(聞き手)
備蓄はしていましたか。
(鎌田様)
震災前は備えていませんでした。
近所の皆さんが
幼稚園に避難してきたのですが、
避難所ではないので備蓄はしていませんでした。
私は2階から屋根をつたって、隣接している自宅まで何度も往復し、衣類や布団を持って来ました。避難して来た方は、ラジオや水を持っていましたので、何が起きたのかを、ラジオから知る事はできました。
水を持参された方は、ペットボトルに直に口を付けて飲んでいらっしゃったので、分けてもらう訳にはいきませんでした。我慢している子ども達の目に触れないように配慮をしたことが、今なお記憶に残っています。
幼稚園には業務用と家庭用の冷蔵庫が2台あり、後者には、先生方の私物のジュースなどがありました。明け方、それに気が付いた先生が、冷蔵庫をたぐり寄せ、飲み物を取り出しました。それを園児の工作用にとっておいたプリンの空カップに注いで渡しました。
その時、大人は50人くらいましたが、最初は子どもからお願いしますと言って配りました。やっと子どもたちが飲めると思って、心からホッとしました。
震災当日の夜中には、3人の自衛隊の方がボートに乗って来ていたのですが、周りにもっと大変な人たちがいるからと、行ってしまいました。
しかし、その時の自衛隊の方が手配して下さったと思われるおにぎりが明け方に届き、何とか飢えを凌ぐことができました。
(聞き手)
近所の方が
避難所として避難されて来たことは、想定外だったのではありませんか。
(鎌田様)
地区集会所が
避難所になっていたのですが、鍵が開いていなかったため、皆さんこちらに避難してきました。平屋の集会場に避難されていたならば、犠牲者がでたかもしれません。
(聞き手)
幼稚園の建物自体もかなり大きく揺れたのではないでしょうか。
(鎌田様)
私は、揺れが来た時は市役所にいましたので、実際には見ていませんが、相当揺れたので混乱したようでした。